戦争・捕虜

空襲 捕虜・強制労働 戦場跡 記念館等 その他

空襲

日本国内

東京空襲

時期:
初空襲は1942年4月18日
米軍によるサイパン占領後、1944年11月24日から本格化し1945年8月15日までに122回(諸説あり)の空襲があったそうです
大規模な空襲
東京大空襲 1945年3月10日  死者約10万人
山の手大空襲 1945年5月25日 死者約3,600人

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑

隅田公園内にあります

山の手大空襲慰霊碑

表参道にあります

東京都慰霊堂(横網町公園)

関東大震災と東京空襲で亡くなった方の約163,000体の御遺骨が安置されています

東京大空襲・戦災資料センター

東京大空襲の資料が展示されています

東大和市にある旧日立航空機株式会社変電所

機銃掃射の跡がそのままで公開されています


青函連絡船空襲
時期:1945年7月14日~15日
米軍機の空襲により連絡船11隻のうち8隻が沈没、3隻が使用不能、ドッグにいた1隻も被害を受け、本州と北海道を輸送する手段がなくなる
約400名の乗員乗客が犠牲になりました


慰霊碑


福井空襲
時期:
1945年7月19日
死者は1,576人+108人(重症後死亡)


足羽川沿いの幸橋付近に建立された戦災慰霊碑
火災から逃れようと多く人が足羽川のほとりで命を落としたそうです


敦賀空襲
時期:

7月12日
死者109人、戦死1人
7月30日
死者15人
8月8日
死者33人
パンプキン爆弾(長崎型原爆の模擬爆弾)が投下される


敦賀市内の本勝寺に建立された戦災慰霊碑


熊本空襲
時期:
1945年7月1日〜2日および8月10日
約469人(諸説あり)


白川のほとりに建立された熊本平和祈念碑慰


海外

ラオス
原因:ベトナム戦争
ホーチミンルート(南ベトナム解放民族戦線への補給ルート)とパテトラオ(ラオス愛国戦線)への空爆、および爆撃機がタイの米軍基地に戻るときに空爆しきれなかった爆弾を投棄
時期:1964年~1973年
参考(爆弾投下量):
日本(第二次世界大戦) 約16万トン
ラオス 約200万トン



UXOビジターズセンター
ラオスのルアンパパーンにある不発弾の資料館
現在も不発弾が8000万発(推定)残っているそうで、被害者は5万人を越えているそうです


捕虜・強制労働

日本国内

英連邦捕虜墓地
場所:
横浜市保土ヶ谷区

日本軍の捕虜となり収容所で亡くなった英連邦(イギリス、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、インド、パキスタン)の兵士ら約1700人と駐留中に死亡された方300人が埋葬されているそうです。
識別不能の遺骨にはアメリカ人やオランダ人の方も含まれているそうです


大森捕虜収容所(東京捕虜収容所本所)跡
場所:平和島

跡地に建立された平和観音
収容中に41人の方が亡くなったそうです。
戦後は戦犯が一時収容されていたそうです


大船捕虜収容所跡
場所:大船

海軍軍令部の将校や収容所の職員が、米軍捕虜から兵器や作戦に関する情報を聴取するために、虐待して6名を死亡させたそうです。
事件の被害者のために大船の龍宝寺の住職が境内の墓地に卒塔婆を建て毎年供養しているそうです


習志野捕虜収容所跡
場所:習志野

第一次世界大戦時にドイツ兵の捕虜を収容した跡地
約900名を収容。
スペイン風邪の流行等により30名の方が亡くなったそうです


日中不再戦友好碑
場所:
余市郡仁木町
強制労働者数:200人
死者:18人
労働内容:日本鉱業大江鉱山緊急拡張工事


仁木町霊園に建立された慰霊碑


中国人殉難烈士慰霊碑
場所:
室蘭
強制労働者数:1,852人
死者:564人
労働内容:港湾荷役作業


イタンキ山のふもとに設置されている慰霊碑


中国人労務者之墓
場所:
夕張
強制労働者数および死者:
真谷地炭鉱 強制労働者数:417人 死者:60人
三菱鉱業大夕張炭鉱 強制労働者数:292人 死者:85人
大夕張地崎組事業所 強制労働者数:383人 死者:148人
角田炭鉱 強制労働者数:294人 死者:76人(生存者の記録では98人)

労働内容:夕張地区での炭鉱や土木工事


真谷地共同墓地に建立されたお墓


木曽谷殉難中国人慰霊碑
場所:
長野県木曽町三岳
強制労働者数:1,251人
死者:182人
労働内容:上松発電所および御岳発電所建設


大島橋付近に設置されている慰霊碑


中国人殉難烈士慰霊碑
場所:猪苗代
強制労働者数:1,000人
死者:25人
労働内容:沼ノ倉発電所、宮下発電所建設


建設工事に携わった人々の飯場付近に設置された慰霊碑


在日殉難中国烈士永垂不朽
場所:
長野県下伊那郡天龍村
強制労働者数:880人
死者:62人
労働内容:平岡ダム建設


ダムの堤防付近に設置された慰霊碑


中国人殉難烈士慰霊碑
場所:石川県七尾港
強制労働者数:399人
死者:15人
労働内容:港湾荷役作業


七尾港に設置された慰霊碑


中国人殉難者慰霊碑
場所:静岡県富士市
強制労働者数:504人
死者:52人
労働内容:飛行場建設作業


田子の浦の墓地に設置された慰霊碑


日中不再戦の誓いの碑
場所:岐阜県瑞浪市
強制労働者数:330人
死者:39人
労働内容:地下工場建設作業


瑞浪市民公園に設置された慰霊碑


中国人殉難者の碑
場所:岐阜県川辺町
強制労働者数:270人
死者:4人
労働内容:地下工場建設作業


山楠公園に設置された慰霊碑


中国人殉難塔
場所:
岐阜県各務原市
強制労働者数:887人
死者:26人
労働内容:軍用機誘導路の建設作業


薬王院の裏山に設置された慰霊碑


中国人殉難者の碑
場所:
岐阜県岐阜市
強制労働者数:1689人
死者:73人
概要:高山市、瑞浪市、各務原市、川辺町で亡くなった方の慰霊碑


岐阜公園に設置された慰霊碑


海外

ハバロフスク平和慰霊公苑

ソ連に抑留中に亡くなった方の慰霊のために作られた施設
過酷な労働により約5万5千名が亡くなったそうです

日本人死亡者慰霊碑


シベリア戦没者慰霊碑


カンチャナブリの連合軍捕虜の関係施設
JEATH戦争博物館
泰緬鉄道建設のために強制労働に従事させられた連合国戦争捕虜に関する資料等が展示されています
J=日本人、E=英国人、A=アメリカ人およびオーストラリア人、T=タイ人、H=オランダ人の意

展示されている資料は撮影禁止


日本軍が建立した慰霊碑
過酷な労働により捕虜の方や現地の労働者のうち約10万人の方が亡くなったそうです


クウェー川鉄橋と泰緬鉄道


戦場跡

日本国内

壇ノ浦古戦場跡
時期:1185年
場所:関門海峡
概要:源氏と平氏の戦い。平家が滅亡する


壇ノ浦古戦場跡


安徳天皇が入水したところ


和田塚
時期:1213年(鎌倉時代)
場所:鎌倉
概要:和田義盛一族と北条氏との合戦および戦死者の埋葬跡

合戦跡に建立されている和田一族の供養塚


長篠·設楽原の戦い決戦場跡
時期:1575年
概要:
織田信長と徳川家康の連合軍と武田軍の合戦


設楽原の決戦場跡


関ケ原
時期:1600年
概要:徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍との合戦跡

決戦地跡


下関戦争跡
時期:1863年、1864年
場所:山口県下関市
概要:1863年と1964年に起きた長州藩とイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊との武力衝突


長州藩の大砲(レプリカ)


戦死したフランス人水兵の慰霊碑


供中口古戦場

時期:1868年
場所:福島県二本松市
概要:戊辰戦争における二本松藩と新政府軍との戦場跡



上野戦争
時期:
1868年
場所:寛永寺(上野)
概要:戊辰戦争における彰義隊と新政府軍との戦場跡

南千住の円通寺に移築された寛永寺の黒門
弾痕跡が多数あります


上野公園にある彰義隊戦死之墓


海外

朝鮮戦争
時期:1950年~1953年
場所:朝鮮半島
概要:大韓民国+アメリカを中心とする国連軍と朝鮮民主人民共和国+中華人民共和国(ソ連は第三次世界大戦を避けるために参戦せずに支援にとどまる)との戦争


平壌の祖国解放戦争勝利記念館の展示物


爆破された鴨緑江の橋


軍事境界線


クチ
時期:ベトナム戦争時
場所:ベトナム
概要:南ベトナム解放民族戦線のゲリラ戦の根拠地


クチトンネル
トンネルの全長は250kmあるそうです


ゲリラ戦で用いたさまざまな罠を解説しています


旅順
時期:1904年8月19日~1905年1月1日
場所:中国
概要:日露戦争の激戦地


203高地の頂上にある大砲のレプリカ


203高地の頂上にある慰霊碑
付近に散乱していた弾薬を溶かして作ったそうです


203高地から見た旅順港


ロシア軍の要塞跡


水師営会見所跡
乃木大将とステッセル将軍の会見が行なわれた所


サハリン
時期:1945年8月20日~8月22日
場所:熊笹峠(ホルムスク峠)
概要:日本軍とソ連軍の激戦地


熊笹峠にあるソ連の戦勝記念碑


墓地だったところにある鎮魂碑


真岡郵便局があった場所
ソ連軍の侵攻の状況を電話で伝え続けた後、自ら命を絶った電話交換手の勤務していた郵便局


稚内に建立された真岡郵便局の電話交換手の慰霊碑


記念館等

日本国内

舞鶴引揚記念館
舞鶴に戦地からの帰還者やソ連抑留者の引揚港があったため、ソ連抑留者についての資料が多数あります
ソ連抑留者数:約57万5千人~70万
抑留中の死者:約5万5千人


復元した引揚桟橋


舞鶴引揚記念館に展示されているシベリア抑留中の様子


長崎原爆資料館
原爆についての資料館

 
原爆のレプリカ


原爆についての資料が展示されています


平和祈念像


知覧特攻平和会館
知覧にあった特攻基地についての資料館
陸軍の飛行訓練場だったのを沖縄戦で特攻基地とされる
400機以上の特攻機が飛び立ったそうです



遺影や遺書などが展示されています(撮影禁止)


弾薬庫跡


万世特攻平和祈念館
陸軍最後の特攻基地「万世飛行場」の跡地に作られた資料館
100機以上の特攻機が飛び立ったそうです


遺影や遺書は撮影禁止


敷地内に建立されている慰霊碑


鹿屋航空基地史料館

元海軍の航空基地で現在は海上自衛隊鹿屋航空基地にある資料館
日本海軍や海上自衛隊についての資料や特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています
400機以上の特攻機が飛び立ったそうです


史料館


敷地内にある慰霊碑


小塚公園にある「旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔」
908名の方が特攻で亡くなったそうです


大刀洗平和記念館
旧日本陸軍の大刀洗陸軍飛行場跡に作られた歴史資料館
米軍の空襲の様子や遺影などが展示されています


大刀洗平和記念館


撮影可のゼロ戦


大久野島
大久野島は1929年から終戦まで毒ガスの製造工場があった島で戦争中は秘密の島として地図からも消されていました


大久野島毒ガス資料館


毒ガス製造や貯蔵関係の施設跡が点在しています


毒ガス製造や処理によって亡くなった方の慰霊碑


大津島
人間魚雷「回天」の訓練基地のあった島
搭乗訓練員の宿舎跡に立てられた回天記念館がある


回天記念館


港に建立された回天供養の観音様


沖縄県平和祈念資料館
平和祈念公園内に開設された資料館
沖縄戦や米軍統治から本土復帰の道のり等の資料が展示されています

 
沖縄県平和祈念資料館


魚雷


旧海軍司令部壕

日本海軍の司令部が置かれた地下壕


兵士がすべて人力で掘ったそうです。


地下壕の入口付近にあった慰霊塔


海外

侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館
場所:ハルビン
関東軍防疫給水部(通称731部隊)の施設の跡地に作られた資料館
飲み水を作る濾過器から細菌兵器、風船爆弾等様々な資料が展示されていました
スパイ活動等で捕らえられた人達を使って人体実験をしていた様子のジオラマがあります


入口


凍傷治療の人体実験


細菌爆弾


風船爆弾


当時の建物の残骸が残っていました


侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館

場所:南京
南京大虐殺の資料館


入口付近にあるモニュメント


展示資料には日本語での説明がありました


ベトナム軍事歴史博物館
場所:
ハノイ
戦争で実際に使われた兵器やフランス、アメリカとの戦争についての資料が多数展示されています


撃ち落とした米軍機の残骸で作られたモニュメント


兵器が多数展示されています


ベトナム戦争のジオラマ


戦争証跡博物館
場所:
ホーチミン
ベトナム戦争の資料館
戦場カメラマンの撮影した写真等が多数展示されています


戦争証跡博物館

カンボジア地雷博物館
場所:シェムリアップ
地雷除去活動家であるアキ・ラー氏が自身で撤去した地雷や不発弾を集めて展示しています
アキ・ラー氏はクメールルージュ(ポルポト派)の元少年兵でベトナム軍に捕まった後はベトナム軍の兵士としてクメールルージュと戦闘をしたそうです
日本人のボランティアの方がいて説明してくれました


撤去した地雷


地雷原(再現風景)


その他

日本国内

ひめゆりの塔

看護要員として従軍していた女学生の慰霊碑
ひめゆりとは沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の2校の愛称
ひめゆりの生徒は陸軍病院に動員され、過酷な労働を強いられ、多くの方が戦火に巻き込まれ亡くなったそうです


伊原第三外科壕跡に建立されたひめゆりの塔
米軍の攻撃によりここで約80名が亡くなったそうです
ここにはひめゆりの生徒と引率の教師42人がいたそうです


ひめゆりの塔のとなりにある「沖縄県殉職医療人之碑」
沖縄戦で犠牲になった医療関係者の慰霊碑



父島(小笠原諸島)の戦跡



海軍戦没者の慰霊碑


トーチカに残された銃


墜落した米軍機の残骸


沈没したまま放置された輸送船


九軍神慰霊碑
場所:
愛媛県伊方町須賀公園内
真珠湾攻撃で出撃した甲標的(特殊潜航艇)5隻の搭乗員10名のうち戦死した9名は九軍神として崇められたそうです(捕虜となった1人は黙殺された)


甲標的の訓練場所だった三机湾に面した須賀公園に建立された慰霊碑


海外